COLUMN コラム

3.23 2026
MON

 前回桃の節句に因んだ「雛祭り」を書き綴ったが、くどく「雛」という言葉にこだわりたい。造園家と称し、半世紀に亘り「日本美の特質とは」と問い掛け続けてきた自分がそこにいるからである。
 「雛」という言葉は、前回未完成な姿を言う旨ご披露をした。しかし、同じ発音の「ひな」に「鄙」という同義語が存在する。また、都に比すれば田舎という意味もある。これがみそである。常日頃私は、二元的世界観こそが日本美の特質をもたらしていると主張。つまり本来全く違う価値観を共有しながら美を浮き立たせるという独特の美的表現が日本文化の底流にあるという「見立て」にいきついた。一元的価値観。つまり絶対的存在が先ずあってその下にピラミッド的世界を構成する国々や民族性。そうキリスト教・イスラム教的世界観がそれである。いわば「言い切る」世界観であると言っても良い。
 ところが我が国は常に相対性を重視し、その間に漂う「曖昧さ」を重視する。太陽があれば月もある。黒があれば白がある。一見対立するそうした要素の狭間にグラデュエーションの世界が広がっている。その「曖昧さ」の中に「確たる美と朧げな美」の双方を見出す。「わび・さび」といった美的感覚もそうであろう。その典型が平安貴族の中に息づく。京の美とは、豪華絢爛で複雑多岐な「雅」と、頼りが無く未完成で農の風景に彩られた「鄙」の間を行き来する美こそが、美しい世界であると表現する。源氏物語の女人たちもそうである。絵画の世界では、密度が高く豪華絢爛な「土佐派・狩野派」といった絵画の傍らに、墨一色の濃淡で表現された「山水」がある。庭園も又、石組みや植栽が複雑に絡み合いながらある特定の風景を雅に「見立て」「写す」技巧を凝らした平庭や池泉回遊庭園がある傍ら、「枯山水」のような、まさに抽象的単純な表現の庭園がある。それに寄り添う垣根など庭園添景物も敢えて崩され、田舎、或いは時間に錆びた侘しいつくりを添える。そこにも見事に雅と雛の世界を行き来する庭園様式が存在している。それら多数の事例を見るにつれ、日本美とは言い切らず、曖昧で、嫋やかに二つの世界を行き来する二元的世界観から生まれるものという確信が強まるばかりである。

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