COLUMN コラム
イチゴ、タケノコ、春キャベツ
5.25
連休中に宮城県亘理群山元町に行った。畑で摘んだイチゴを頬張り、山から掘り出したタケノコをいただく。通りの店には、美味しそうな春キャベツが並んでいた。その土地の空気を含んだ味にふれながら、英語で「食材」って何というのか、ふと気になった。
ぴったりあたる言葉が見つからない。ingredients は「材料」ではあるけれど、日本語の「食材」が含んでいる気配とは、どこか違う。日本で「いい食材ですね」と言うとき、私たちは単に料理の部品について話しているのではない。そこには、季節や土地の記憶、育てた人の手間、これから料理へ変わっていく途中の静かな可能性が含まれている。
言葉は、世界に名前を貼るだけの道具ではない。むしろ、世界をどのように見分け、どこに注意を向けるのかを形づくっている。「食材」という言葉があることで、私たちは料理される前の野菜や魚や米を、ただの物質ではなく、土地や人や季節と結ばれた存在として見ることができる。
一方で、ingredient という言葉には、レシピを構成する機能的な響きがある。もちろん、それが悪いわけではない。ただ、日本語の「食材」には、まだ料理される前の「存在」が宿っている気がする。
日本文化には、完成品よりも、その手前にある状態へ眼差しを向ける感覚がある。花になる前の蕾、朽ちゆく木、名づけきれない余白。「食材」という言葉にも、そうした未完成への敬意が残っている。ことばが違えば、見えてくる世界も少し変わる。その小さな違いの中に、日本語が育ててきた感性がある。身だろうか。せめて帰り道の交差点では、出会う他者の気配を一人の人間として、自分の頭で受け止めてみたいと思った。